被災地の現状(3)

玉井です。
被災地リポート、最後です。

28日夕、気仙沼

次の移動は20km、50分です。気仙沼市立本吉病院。本吉病院は海から約1.5kmの距離があったのですが、近くを流れる津谷川を伝って津波が到達しました。鉄筋コンクリートの病院は、1階部分は全部水浸しとなり、現在は残った2階で外来と在宅診療を行なっています。
現在は、7月までの予定で建物(躯体)の復旧、補強工事を行なっていて、クレーンと電気ドリルの大きな音が鳴り響いていました。建物補強工事が終了後、1階に医療機材を入れる予定です。今年は先ずハード面の復旧を行い、ソフト面はその後になります。
医師会とトレーラー協会から寄贈されたトレーラーハウスが仮のミーティングルームになっていて、そちらで副院長と事務課長とお話をしました。
被災後、医師2名と管理課長が相次いで退職となり、病院のトップ3人がそのままそっくり入れ替わることになりました。311により病院も地域も、患者も一変したそうです。これまで入院患者の受け入れをし、かつ家族など周囲の送り迎えで外来患者が来ていました。
現在は、まだ、病棟は受けられない状況のまま。患者も家族も被災してしまい、病院まで送り迎えが現実出来ない状況になっています。そんな中で、在宅診療が急速に増えています。(3月約30人訪問診療、約20人の訪問看護)
副院長の齊藤医師は、島根県浜名市で13年間医師をされていましたが、今回の被災を機にUターンし本吉病院に着任されました。島根県も医師不足の状況は同じですが、気仙沼市本吉地区は比較にならないそうです。浜名市は1万人に約23名の医師。本吉地区は1万人に2名。本吉地区の医療機関は唯一、本吉病院のみで1万人に1医療機関のみ。(医療過疎の最前線で、日本の地方医療の縮図の様な場所です。)
今、本吉など被災地でとても必要とされていることの1つが、”こころの傷のケア”です。精神分野のプロフェッショナルも重要ですが、もっと必要なのは、医療レベルは高くなくても「継続して、安心して、お互いに顔が見える」支援が必要です。
また、被災地復興が進む中で、2極化が進んでいます。「凄く忙しい人。」と「凄く暇な人。」50歳半ばから60歳代くらいの人が、仕事にもつけず置いてけぼりになっています。(凄く暇な人)被災地全体でみればここをどう引っ張り上げるかが大きな課題となっています。

(Next Step)
公立病院ということもあり、より大きな枠組みでの取り組みが必要です。建物の補強工事やX線などの医療機器の調達は、気仙沼市予算や大きな公共団体補助による実施が大部分を占めると思います。
“守る会”の役割としては、フットワークの良い支援になると思います。例えば、金額的には大きなモノでなくても、今すぐ欲しいモノを円滑に調達、手配することで、本吉病院で働く関係者にとっても、そして何より本吉病院で医療を受けられる地域住民の方にとってもより良い環境を整備したいと思います。(1階が全壊し2階で診療を続けている本吉病院では、)待合いの環境を例にとっても、心安らかに過ごせる工夫、明るい気持ちになる工夫は出来ると思います。
寄付による大型テレビの調達リクエストが早速届きましたが、大物から小物まで継続してフォローしたいと思います。


***

今回、被災地の医療関連の関係者とお話をさせていただいて、取り組むべき課題の「大小」「優先順位」「スケジュール」などについて十分に整理されていない印象を受けました。それは、やはり被災地は平時ではなく、まだ特別の時期の中であることと、やはり311の与えた影響の甚大さを感じました。
しかし、一方で、お会いした皆さんの地域の人たちに“より良い医療”を届けたいという共通する気持ちを感じました。まだ、時間はかかるものの、必ずや被災前よりも地域にお住まいの人々に“より良い医療”が提供出来るものと確信しています。

最後に、本吉病院の齊藤医師が仰られていたことがとても印象的でしたので、ご紹介させていただきます。また、被災地の地域医療が新しい姿で再生することを心よりお祈りしております。

(齊藤副院長)
本吉病院だけで考えると「助けてもらう」という状況を脱却して、次は全国の在宅診療を志す医師にとって、最も魅力のある医療機関を目指したい。

なぜなら、ここ(本吉)は日本の地域医療の縮図であり、近未来の在宅診療がここにある。「ここで在宅診療の経験をしたい。」と医師が仕事をする魅力を感じる様にしたいし、そうなれると思う。

(玉井恭一郎)

被災地の現状(2)

玉井です。
引き続き、被災地の現状をリポートいたします。

28日朝、石巻

レンタカー(55km、1.5時間)で、石巻市に到着。まず、道路は基本的に復旧し、交通量も多く、重機やダンプも目につき土木系の復旧、復興は進んでいます。ドロ、ガレキも綺麗に撤去され、山積みのガレキ置き場が唯一被災を物語る状況です。
(ただ、仙台から大部分は高速道路で移動しましたので、本当の姿を見落としているのかも知れません。)

石巻では、訪問診療を行なっている“祐ホームクリニック石巻”を訪問しました。事務局長さんとスタッフさんからお話を伺いました。“祐ホームクリニック”さん自体の取り組みの成果に加えて、その周囲にある地域住民、病院、医師会、企業、ボランティア団体などとの連携がかなり上手く進んでいる様子でした。中長期では、常勤医師の確保というテーマがあるとのことですが、このごく短期間で被災地を支える医療機関として運営されている実情を見て、非常に嬉しく、また、心強く思いました。

(Next Step)
祐ホームクリニック石巻は比較的上手く運営されている印象を受けました。常勤医師の確保については、随時状況をお伺いしながら必要に応じて医師紹介会社への依頼など必要な打ち手を行いたいと思います。


28日昼、気仙沼

次の移動は85km、2時間です。途中半分は高速道路でしたが、残り半分は一般道でした。
一般道を走ると周囲の風景が良く見え、何故、私が“守る会”の活動に手を挙げたか、その理由がハッキリとわかりました。
 やっぱり東北は、日本の“ふるさと”なのです。私が幼稚園に入るか、どうかという時期に見た原風景そのものの野山がそこにありました。小川を一つ取っても土の堤の昔ながらの川なのです。そこで慎ましく、我慢強く生活する人たちがいるのです。311はそんな地域を直撃した大震災なのです。自分の生活を優先して都会で生きている私には、そんな日本の“ふるさと”に手を差しのべる義務があることを改めて思い出しました。

気仙沼では、“守る会”の立ち上げ当初からお世話になっている森産婦人科医院を訪ねました。気仙沼港から約150mの場所にある森産婦人科医院は、地震の際には人の背の高さまで津波がやって来て、1階の医療機材は全部水浸しになってしまいました。今は、新しい機材を入れて妊婦健診を中心に診療を行われています。
訪問した際には、ちょうど、庭の松の手入れを職人さんがされていました。塩害で2本の松は枯れてしまいましたが、残りの5本くらいは青々とした葉が目に眩しいくらいでした。(この緑溢れる松の様に森産婦人科医院が元気に復活されることを心よりお祈りしております。)
今は、平穏に診療を再開している様に見えますが、院内はドロとガレキだらけの状態から、ここまで復旧するのは、口に出せない苦労があったと思います。私はこれからも寄り添っていきたいと改めて感じました。

(Next Step)
2つのテーマがあります。1つは分娩再開に必要なインフラ(医療機材、給湯設備、給食室の復旧)の整備で、もう1つは気仙沼地区の復興にあわせて森産婦人科医院がどの様に地域の妊産婦とかかわっていくかについてのグランドデザインをよりクリアにすることです。
分娩再開に必要なインフラについては、宮城県からの補助金もありますが、私たち“守る会”として待機ベットや給食施設(冷蔵庫など)の整備のお手伝いをする予定です。産婦人科医院としての役割については、気仙沼市の街自体の復興計画とも連動しており、自分たちの思った通りにならない面もあると思います。今後も継続的に森院長と相談をしながら対応したいと思います。また、気仙沼と東京という遠い距離はいかんともし難く、これもスカイプなどのツールを活用して積極的にコミュニケーションを取りたいと思います。

被災地の現状(1)

玉井です。

今回4月27日、28日に宮城県を訪問しました。“311”から412日経過した被災地の様子をお伝えさせていただきます。

この度の東日本大震災では、1万5,854人の尊い命が奪われ、いまだに3,155人の方が行方不明となっています。(2012.3.11時点)ここで改めて、亡くなられた方々のご冥福を心からお祈りするともに、被災された皆様に心からお見舞いを申し上げます。


27日朝、仙台

まず最初に、宮城県庁の医療整備課を訪ねました。
これまで“守る会”のメンバーが継続的にお話をしている医療整備課の班長からお話を伺い、宮城県内の医療復旧、復興をマクロ的に考えると個別の課題は存在するものの概ね一定の進捗がある様に感じました。1つの数字で表すと被災した113の医療機関(病院、有床診療所)から復旧費用の予算申請があり、うち108の医療機関では復旧が継続されています。非常に残念ながら残り5医療機関(3病院、2有床診療所)では、廃院等の決定がされ申請の取り下げとなったそうです。復旧率、スピードの課題は残りますが、全体的には良い方向に進んでいる様子です。また、各地域の市町村医師会、県医師会からも会合を通じて緊急事態におかれている医療現場はなく、日常を取り戻しつつあるとのお話が届いており、少し安心しました。
 この1年余りの県の動きを振り返ると日本全体、国、厚労省からの支援を受け、通常の年度の数倍、十数倍の業務(≒予算)を各市町村単位で差配したということだと思います。今回の訪問に際してアポイント調整のメールが深夜11時過ぎに先方から届きましたが、医療整備課に限らず県の行政機能全体が未だに非常時に置かれていることを感じました。
医療過疎地と言われるこの地域が、今回の被災で更に医師が減ったことも事実で、また、現在も医師の流出が続いていることの事実です。単発で終わらない息の長い取り組みの必要性も痛感しました。

(Next Step)
宮城県とは、岩手、福島も含めた被災地域に対して、医療従事者(特に医師)の目を向けて貰う取り組み(シンポジウム開催など)も企画しております。自治体、大学、医師会、地域の医療機関などを巻き込んで実現させるに、もう一歩、二歩踏み込んで取り組みたいと思います。医師会との連携も取り組むべき課題として上がって来ましたので、こちらについても“守る会のメンバー”と相談の上で進めていきたいと思います。


27日昼、仙台

次にPCAT(日本プライマリ・ケア連合学会 東日本大震災支援プロジェクト)の仙台オフィスに移動です。PCAT仙台オフィスは、県庁から歩いて行ける距離でしたので歩いて移動しました。仙台市内の感想は、3つ。先ず、美しい街だと以前から耳にしていましたが、傾奇者の伊達政宗の意思を引き継いでいるのでしょうか。少しモダンで、清潔感のある街でした。次に、仙台市内は震災の爪痕は全く感じられず、被災地という感覚は全くと言って良いほど感じられませんでした。最後に、一番嬉しかったことで街行く人の顔が明るかったことです。若干、復興特需(?)とか揶揄する声もありますが、元気そうな顔を見るとやはり嬉しくなります。
 PCAT仙台事務所では、Logistic担当の大川さんとお話をしました。大川さんは後方支援として、被災地支援で別の地域からボランティアで来られた医師などの住宅の調整などをされているそうです。東京では、住宅の手配と言ってもピンと来ないかも知れませんが、多くの住宅が被災した地域ですので、そう簡単なことではなさそうです。前日は支援にこられている医師の住宅の引越しをしたそうです。勿論、自分たちの手で車を使って家財を移動させるそうです。恐らく何をするにも東京での日常生活では考えられないこの様な余分な一手間、二手間がかかります。支援に来た人が、基本的に自分たちのことは自分たちでやる。これも被災地支援で必要なことだと思います。
PCATが支援している地域は、宮城県内でも被災が深刻で「町が死んで行く。」と言う表現をされる方もいるそうです。もしかしたら取り残されつつある地域があるのかも知れません。今後、特に注意してフォローをしたいと思いました。(あくまで想像ですが、地域の復興の青写真が見えないまま、若い働き手は働き口を求めて地域を離れ、その地域を離れられない高齢者や事情のある人だけが残されていく状況を指すのかも知れません。)
 ちょっと変ったところでは、PCATの活動を通じて地域に入り込んでいく過程で、地域コミュニティの寸断を痛感するそうです。女性向けには“お茶っ子”という集まり好評で継続実施しています。女性のコミュニティはこの様に何とかなりそうなので、次は男性向けということで“釣りクラブ”の立ち上げと運営を計画しているそうです。

(Next Step)
“守る会”はPCATとは異なる組織ではありますが、被災地の地域医療を支えるという大きな方向では同じです。今後、PCAT仙台事務所とは、定期的(例えば月1回)な電話会議を実施して、その時その時に被災地に必要な支援を共有しながら、被災地と東京などを繋ぐ役割を担いたいと思います。

森産婦人科にマットレスを寄付しました

公益財団法人 東日本大震災復興支援財団の「子どもサポート基金」による支援のご報告です。
森産婦人科さんからのご希望で、医療用のマットレスを2枚、寄付しました。

メディヴァで、開業支援の際お手伝いいただいている、医療機器卸さんの一つである栗原医療器械さんが、森先生から指定のあったマットレスを作っているフランスベッドさんにつないでくださり、破格のボランティア価格でご提供していただけることになりました。

森先生から「マットレスが到着しました!」と感謝の言葉とともに写真が送られてきました。
マットレスを受け取る森先生

気仙沼地区での妊婦さんが安心して出産できる環境を作るため、これからもお手伝いしていきます。

採算を抜きにして協力してくださった栗原医療器械さん、フランスベッドさん、ありがとうございました!





妊婦用の車いすに交換

車いす1

先日、森産婦人科に寄贈した車椅子2台のうち1台が妊婦さん向けではなかったので、妊婦さん向けの車椅子に交換してきました。